夢見る乙女だった頃、学校からの帰路に静岡駅近くの某ホテルで、宝石の展示会を見たことがありました。
ちいさな頃から宝石の事典を見て憧れていた私が、強引に友達を誘ったのかもしれません。
美しい物への好奇心と、”1人ではない”という青い無鉄砲な気持ちがもつ勢いで、展示場へのエレベーターに乗り込みました。
広く明るい展示室には数人の客がいたと記憶していますが、それなりにお歳を召した奥様風の方ばかり・・
正に場違いな雰囲気だということは、私たちは充分に分かっていましたので、内心ヒヤヒヤだったと思います。
でも、直ぐに私たちは美しい宝石が並ぶショ-ケースに目を奪われました。
購入が出来ないことは、販売員の目にも明らか・・
しばらくして1人の販売員が、石の説明を丁寧にして下さったのです。
女性だったと思いますが、若い私たちの無邪気な質問にも優しく応対して下さったことは、今思えば感謝してもしきれない、とてもありがたいことでした。
基本的な宝石の知識はそれなりにあると、生意気にも自負していましたが、この時はあれこれと質問することに一生懸命でしたっけ。
ここで初めてアレキサンドライトという宝石の名前を知り、その時からの憧れなのです。
この石は太陽光と人工光の違いで、色が変化して見える不思議な石です。
その説明を聞いてから、『いつの日か、私も身につけたい!』と19才の乙女のハートにインプットされました。
因みに、太陽の下ではエメラルドやサフェイアのような緑や青の色合い、人工光の下ではガーネットやルビーのような紫や赤に輝きます。不思議ですね、魅力的ですね。
宝石の煌めき方は、カットの仕方やアクセサリーのデザインによって変わってきます。
最近、宝石のように人も、どのように研磨するかで、輝きが違ってくるのではないかと・・私は想像しています。
例えば宝石は美しい光の屈折を求めて、ダイヤモンドを使って磨きますし、刃物はシャープな切れ味を求めて砥石で研ぎますよね。
それは研がれる物が、それ以上に固いものを利用して摩擦し合い、擦られてようやく艶や切れ味が出現します。
根気よく、擦り合わさない限り、美しさも強さも出てこないわけでして・・
自分と異質であるものを理解しようとして苦悩し、自身の負や非を認め成長すること、その変化の過程が自分を研磨することかもしれません。
では、人はどうかというと、社会や組織のストレス、まさに対人関係によって磨かれていくのではないか・・。
同調する仲間や、同質の中での生き方は「楽」ではありますが、成長はあまりないですよね。
多分、磨かれることはありません。お互いに刺激が無いし、楽しいから。でも同質の存在は大切です。
だとすれば、気に触るコノ人、理解が出来ないソノ人、大っ嫌いなアノ人・・その人たちこそが、自分を磨かせてくれる砥石かもですね。
そう思えば、嫌いな相手に感謝の想いも湧くというもの・・
年を取れば丸くなって”人間が出来てくる”なんて、実は大きな勘違いであることは、多くの方々はお気づきのことでしょう。
いい年をした高齢者達の立ち居振る舞いが素晴らしいかと言えば・・それはないですし、高齢者の犯罪も随分と多いですね。
人生100年時代、60数年間も人間社会の中で生きてきた経験が、私に研磨をかけたかどうかは、己には分からない部分です。さあどうでしょうか?
私は、肝心なところ、”魂の肝”ともいうべきものが、まだまだ磨かれてはいない・・精神界では、まだまだ若輩者だと感じています。
残念ながらこんな調子ですから、アレキサンドライトを身につけることは、どうも縁が無いようですね。
せめて人生の様々な場面で、アレキサンドライトのように、場面ごとに赤、紫、緑、青・・いろいろな色で輝く人間になりたいと、願う私です。
寿命を考えると、すでに遅しかも知れませんが、誰かが棺桶に入れて下さるまで、もう少し自分自身を研磨しようかな・・と。
そのためには、苦手とするいろいろな関わりに飛び込んでいくことが、大事なのでしょう。
(自責の念をこめて)