随筆:補聴器 母の彼

母の彼

姑がその彼に声を掛けられたのは、3ヶ月程前のことだった。
「田舎暮らし」を提案している、ここ丹波市もやはり高齢化と人口減少に悩む地域だ。日中は人通りも少なく淋しい。
少し腰の曲がった母は運動を兼ねて、歩行補助車で買い物や散歩に出かけている。大正琴やカラオケが好きな母は、若い頃はなかなかの行動家であったらしい。84歳とは思えないスピードで歩く。青い歩行補助車は、何処に行くのも一心同体の母の愛車なのだ。

刈田から小南山を望む

 

彼の声

記録的な猛暑が続いて、辛く長かった夏がようやく終わった昨年の10月。丹波の国は、収穫を迎えた黄金色の田が広がり、その上を蜻蛉の群れが気持ちよさそうにスィッと、勢いよく飛んでいた。
秋風を楽しみながら、母は舗装された道をカラコロと快調に歩を進める。母のスピードなら駅周辺の商店街までは15分もかからない。

母が橋を渡り、踏み切りにさしかかった時のことである。
『デンチテイカ!』。

突然、低い男性の声が母の背後から大きく響いた。飛び上がらんばかりに驚いて振り返った。だが誰もいない。

『へ・・!?なしたもんじゃ・・』(え!?どうゆうわけかしら・・)

確かに男性の声だった。イケメンを想像させる真面目な口調であったそうな。母にとっては、生まれて初めての不思議な体験だった。自分一人だと思っていたので、驚いたのなんのって。心臓がドキドキ。周囲を見回してもでも、誰もいない。

これが<彼>の声を聞いた最初であった。『デンチテイカ!』。

歩きだした母に、またもや彼が声をかけたのである。周囲はやはり誰もいない。飛び上がった母は、ようやくその声の主が誰かをつきとめたのだった。
『電池、低下!』と彼は言っていたのである。

彼は1ヵ月ほど前に購入した母の補聴器だった。電池の残量が少なくなると音声で案内が入ることを、購入時に説明されていたが、母はどうやら忘れていたらしい。
この<彼>は、新しい電池を交換すると『右耳、準備完了!』などと、しっかりと報告してくれるらしいのだ。そのニュースキャスターばりのイケメン声で。

進化する補聴器

今、補聴器の素晴しい性能に驚き、私たちは興味津々である。ここまでの高度な技術にいたるには、紆余曲折があったであろう。多くの研究者や開発技術者が長い時間をかけて取り組んだ努力の賜物であろうし、それを支える家族らのご苦労もあったろう。今後も新化を続けるだろう。きっと数々のストーリーが生まれ、きっとこれからも生れるのであろうと想像すると、私は敬服の感しきりなのである。

右の耳に正しくセットされると、それをキャッチして「右耳、完了!」などと教えてくれる気の利いた<彼>(補聴器)がこの世に存在するなんて、私も主人も想像すらしていなかった。
顔も知らない方々が、長い時間をかけてアイデアを重ね、私たちが知らない間にこんなに便利な、気の利いた補聴器を開発して下さったとは、感謝するばかりである。

補聴器の未来形は?

そういえば、私はこれと似たような感想をもったことが以前にもあったことを思い出した。
カーナビを始めて見聞きした時も、私は非常に驚いた。人工衛星からの電波を介して自分が居る場所やら、行き先やらをナビゲーションするとは、とてつもなくスケールの大きい凄いアイデアである。そしてそれを実用化してしまうなんて、これが天才と呼ばれる人たちの仕事というものなのだろうかと、凡人の私はつくづく感心した。

このしゃべる補聴器の顛末は、主人と私が大いに想像を膨らませ楽しむ材料となった。
補聴器にナビの機能をつけたら、いかがなものであろうと、私が主張した。主人もそれはイイねぇ!と乗ってきた。

高齢化を確実に進んでいる私たちも例外なく、近い将来は耳も目も不自由になるだろう。今の母の生活を見て、近い将来私たちにもやってくる老いを今から覚悟している。化粧をするたびに出来るだけ時間に逆らいたいと願うのは、私だけではないはずである。身体的な衰えを免れることは出来ない。

母や私だけではない、ピン、シャン、コロリは、万人の目標とするところであり、願いだろう。元気に若さを保つには、運動や食事にも気を遣わなくてはならない。しかし根が怠け者の私には「しんどいなあ~」という気分が付きまとう。歳を重ね身体が衰えることに恐怖を感じて、ついつい暗い気分になってしまいがち。耳が不自由になればなおのことで、引き籠もりたくなるだろう。

私の彼、夫の彼女

そこで、そんな時である。『次の交差点、右折です。前方から時速40キロの車あり。注意してください。ただいま目的地の美容院に到着!』などと、何処へでも付き添ってくれる<彼>がいたらなんと嬉しいことか。耳元で囁くイケメンのナビがあれば、齢を重ねた私も引篭もりもせずウキウキと外出するだろう。

 開発が進めば白杖を利用の方にも朗報かもしれない。補聴器の未来型について夜な夜な夫婦で想像を膨らめて、勝手な期待をしている私たちである。

”でも私たちが言うまでもなく、きっと今頃どこかの研究所で開発が進んでいるさ!”と、私は心の中でこっそり確信しているのだ。

”願わくば、私が必要とするタイミングで<彼>に会えますように♥”などと思う、勝手な私がいる。

さて、のご希望のナビ付き補聴器は、どうも<彼女>らしい。

私が夫のナビになれない場合もあるかも知れない。”そんな時は、しょうがないかなぁ” 夫の<彼女>も大目にみてあげようか・・などと思っている。

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