我が家の兄貴犬、2歳半の♂は、人で表すなら「おっとり派、なかなか人の好い」、いやいや違った、「犬の好い」とでも、言いたいような気の優しい子である。気楽な弟分、小型犬の我儘にも、のんびりと付き合うことが出来る、犬離れした兄貴なのだ。
我が家の犬の散歩は、小一時間かかるコースで、だいたい2つに決めている。
自宅前の道を右手に行くと県の施設に繋がる。
山を背にして大きな文化施設が建ち、その周囲は様々な木々が植栽され、なだらかな広場やビオトープなどのある、素敵な空間が広がっている。ここは市民の憩いの場として機能していて、老若男女がスタイリッシュなウェアに身を包んでウォーキングに勤しみ、また愛犬と散歩する姿も多く見かける。
左手に行くと、JR駅に繋がる。
その少し手前には両岸に桜が続く柏原川が流れていて、春は桜花、夏は深緑と蛍、秋は黄金の波を横手に愛でながら、彼岸花や紅葉が楽しめる。初冬の朝、川霧が龍のように立ち昇るその幽玄さは、言葉に表わすことが難しい。周囲の山々がそれらの額縁になっている。
何より私がいたく心を打たれるのは、生きているもの同士の対面である。生を全うする動植物のありようなのだ。
川の中州に白鷺、青鷺、カモは言うに及ばず、翡翠に会うこともある。かわひらこを眼で追えば、セリやクレソンなどといった、最近では高級食材となった野草も繁茂している。
橋の上から覗きこむと、大きな亀がゆらりと泳ぎ、夏は鱗をギラリと光らせ、魚が群れるのだ。深呼吸すれば、身体の細胞も瑞々しく活性化するよう。
丹波に帰ってきた甲斐もあったというもの。
そんな時、優しい兄貴犬は欄干に手をかけて、私と一緒に川面を覗きこむことがある。
それを見て白鷺が慌てて、ふんわりと飛び上る。兄貴はその姿を目で追い、じっと動かない。何を考えているのだろう。2歳半にして、既にしたり顔なのである。
その日の気分で散歩コースは決まる。今日は右回りか、左回りにしようか?
天気が良くカラリとした日で、たっぷりと時間があれば、特別サービスもある。どろんこになるのは覚悟の上、歩いて数分の距離にある菜園の空き地で、ドッグランという手もあるのだ。
防獣ネットで囲んだ空き地で、リードを放すと「待ってました!」とばかりに背を低くして、全力疾走する姿は、なかなか恰好がよろしくて、惚れ惚れする雄姿。
アップダウンのある段々畑も素晴らしいジャンプで飛び越える。ドドッと音を立てて地面を蹴り、体重30キロの兄貴は嬉々として走り回るのだ。
それを見て弟分も負けじとばかりに、その後をキャンキャンと楽しそうに追うのだが、ある日、2匹がぶつかった。弟分は痛い思いをしてから、兄貴が走り出すと、私の足元に隠れるようになった。
最近は「ちぇ、兄貴は子どもだなあ、また走り出したよ・・」とでもいうような醒めた目で見ている。
でも、はしゃいだ後のお決まりのシャンプーは、先程の元気は何処へやら。すっかりしょげてしまい、随分とご機嫌も悪くなるのがおちなのだ。
この兄貴、自らが勝手に宿敵と決めている犬がいる。
気ままに選んだコースでも、かなりの確率の高さで出くわしてしまう。ボーダー・コリー。この犬が宿敵なのだ。
その子は朝晩きちんと散歩に連れ出してもらっていて、7歳くらい。散歩は品の好いご夫婦が交代でされている。散歩中の奥様と前の道で、少しだけお話をしたことがあった。
立ち話の最中もコリーは静かに待っていて、上手に躾がされている様子だった。
しかし兄貴は家の中から威嚇し続け、その声に弟分も触発されて「兄ちゃん、加勢しまっせ!」とばかりに連呼し、いつのまにか遠吠える始末で、その輪唱は煩いのなんの。
まるで「俺の家の前を通るんじゃねえよ!そこのお前!早く行っちまえ!」とでも言うような品の無い感じ。他の犬にはそんなことはしないのに、このコリーに対しては、どうもチャンネルが違うよう。
兄貴にとっては、「宿敵現る!戦闘開始!」の心境なのだろうか。
散歩中、その敵を発見すると、兄貴に緊張が漲る。歯を剥き出し唸りながら、睨みつけるのだ。背中の毛が逆立って、こちらだけが一方的に興奮するのだ。飼い主たちは、よしよしと宥めながらリードを引いて、早足ですれ違おうとするのだが、私にはこれが、かなり力のいる作業なのだ。
「こんにちは、どうもすいません・・こら!ダメ!」などと言うことになるのだが、うちの若輩者はすれ違っても、何度も振り向きながら唸るのだ。
躾がされている相手も、こちらのしつこい挑発に、いかにも堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに、ついに一吠え、「ワワン!」と迎え撃つことがある。
「こら若造め、大人しくしてれば、いい気になりやがって!うるせいやい!」と言ったような感じか。最近は遠くに相手を発見すると、横道に入ったりして出会わないように注意している。
しかし犬の身体能力は素晴らしく、嗅覚はもちろんだが、聴覚も高感度らしいのだ。
我家のリビングの窓は外の道に面していて、側にソファが置いてある。兄貴はそこから常に外の気配を伺っている。我家の警備隊長の指定席である。弟分はいつも非番のように家の中をプラプラとしている。
玄関チャイムが鳴ったり、車のドアが閉まる音などに反応して、警備隊が一吠えするので、彼らの任務は、十分に遂行されている。
だが、兄貴が急にソファを蹴って、飛び降り、吠えたてる時がある。カーテン越しに外を伺っても、誰が来たふうでもない。車もない。しばらくすると遠くから、ああ、やっぱり、来るのである、あの宿敵犬が。
どの位遠くからその気配に気が付くのか分からないが、様々な往来の音の中から、その相手だけを察知するのは相当な感度である。その相手が家の前を通り、遠くに行くまで威嚇する。相手方も足早に歩を進めている様子が想像され、ちょっぴり可笑しい。
飼い主同士は敵愾心を持ってはいないが、犬同士は明らかに、お互いが認めにくいのだ。宿敵犬はチラッとこちらを見ながらも、悠悠と通り過ぎる。それがまた兄貴は気に食わないらしくて、むきになるのが、どうも情けない。
「あのねえ、道の警護はいいの。家の中は静かにしましょうよ。お兄ちゃんが怒ると、弟も興奮しちゃうでしょ。煩いんだから!」。
やはり犬の躾は飼い主の能力に掛かっているらしいのだ。犬は家族の誰かと、等しいとも聞いた。
あー、こんな筈ではなかった。
でもまあ、この子たちのお陰で、丹波くらしが賑やかになったのだから、良いとしようかな。