野菜の力で健康を育む丹波暮らし

随筆【ソーントンの種・丹波はピーナッツバター発祥の地】

2019,11 落花生の収穫

丹波はピーナッツバター発祥の地

一冊の本との出会い

兵庫県氷上郡柏原町(現丹波市)。ここが「ピーナッツバター発祥の地」だということを、どのくらいの方がご存知だろうか。

大正時代、アメリカの宣教師ジェッシー・ブラックバーン・ソーントンは、神戸の東明に家族と住まいして、キリスト教の伝道に情熱を注いでいた。このソーントンが柏原から日本にピーナッツバターを広めたその人だ。
ここまで書けばピンとくると思うが、ピーナツバターで有名な某会社は、彼の名前を頂くものである。

私がこのことを知ったのは、十二年ほど前のこと。当時は西宮市にあるキリスト教の某大学で図書館司書をしていた。
ある日、館内整理中に気になるタイトルを見つけた。それが藤田昌直著作『丹波に輝くソーントン』である。小型版で百八十ページにも満たない薄い本である。夫が柏原町出身であることから興味がわき、早速借りてきた。私はキリスト教信者ではないのだが、読み進めるうちに、随分と深く感動して、一気に読み込んだ記憶がある。

彼の人となりを様々なエピソードと共に記録した内容で、なかなか読み応えのあるものだ。しかし、ピーナッツバターのことはほんの数行しか記されていない
読後、時が経つにつれて、私にはこのピーナッツバターのエピソードが、彼の信仰の象徴のように感じられた。
キリスト教は聖書研究・労働・伝道を重視する。ソーントンは神戸に拠点を置き、それらを実践していた。

ソーントンは何故、丹波に来たのか。推測される理由が幾つか書かれていた。

信仰の道 ~柏原へ~

彼は、神戸の背後に屏風のように立つ六甲山の向こう側を常に興味の対象としていたらしい。『あの山の南側は繁華な世界の港、神戸である。ここには悪の巣もあるが、キリスト教の教会は数多く存在する。しかしあの山の向こう側に連なる地域には何があるのだろう。山から山へ重畳するのだろうが、それと共に村も町もあるに違いない。そしてそこにはキリストの教会があるのだろうか。福音の伝達はなされているのだろうか‥』と。
又、彼が遠方へ出かけた留守中は、夫人にとって労力や精神面だけでなく金銭的にも深刻な問題が常にあった。
留守中彼の六人の子どもたちが次々とインフルエンザにかかり、終には長女を肺炎で亡くすことになる。当時の庶民は栄養状態が非常に悪く、病で命を落とすことが多かったが、日本で暮らす彼らも例外ではなかった。
ソーントン夫妻の気持ちを想像すれば、遠く異国の地で愛娘を亡くしたことは、信仰に生きる者としても大きな試練であり、深い悲しみに沈んだことだろう。この神戸から心機一転、環境を変えたかったのかもしれない。

大正八年の七月に、ソーントン四三歳とその一家は数名の信者と一緒に、ゴム輪の荷車に自分たちが寝るテントや寝具、食器等を積みこみ新天地へ目指した。荷車を引いての山越えと伝道は苦難だったと想像する。
夫人が篠山、柏原、豊岡の県立中学校で教鞭をとることになり、福知山沿線の石生にしばらくは居を構えた。だが、ソーントンは柏原の清潔で気品ある佇まいをとても気に入り、柏原に住宅を持ったと記録されている

木の根橋 布教活動のエピソード

定年退職後、私たち夫婦は丹波へUターンした。今は念願の家庭菜園を楽しむスローライフだ。

柏原駅前、商店街の突き当りに、樹齢一千年と伝わる大欅がある。その大木の傍らに奥村川が流れており、欅の根がその小川を跨いでいることから、「木の根橋」と親しまれ、観光スポットにもなっている。

彼は町の辻々で布教活動をしていて、その木の根橋界隈でのエピソードがある。

当時はおおっぴらに話を聞けない人が家や電柱の陰にそっと身を隠して、説教に聞き入ったとある。姿が見えない一人の聴衆にでも、熱心に説いた。それはとても感動のある内容であった。

後に内村鑑三が日記にこう書き記している。『一昨日聞きしソーントン教師の説教が心の底に響いて居た。かかる精霊の人が日本に居ることを神に感謝する。精霊が降らざれば、聖書をいくら教えても駄目である。精霊の伴わざる聖書知識は、聖書道楽となってしまうだけである・・』と。

ソーントンが仰ぎ見た、この大欅を私も同じように見上げることがある。彼はどの様な精神を宿していたのだろうかと。遥かに遠く時空を超えて、彼の心の内をも想像してみる。すると、彼の熱い眼差しを高見から受け止めていた梢やその緑の葉、大欅が纏うこの風にも、彼の意志を宿した精霊が今もいるように思えてくる。

今はこの奥村川沿いに教会があり、にこやかな牧師夫婦が住まいしておられる。ここには確実にソーントンの種子が発芽している。

ソートンの奇跡 崇広館エピソード

彼は百年前に丹波に来ている。柏原に伝道者養成機関を創設しようと、大きな家を探した。

これにも鮮やかなエピソードが付いている。程なく当時の県立中学校と県立高等女学校の中間に、代官屋敷ででもあったような広大な屋敷を見つけた。彼は一見してここだと思い『神備えたもうたもの』と信じ、そして祈ったとされる。

昭和三十年発行の「柏原町志」によるとその邸宅は旧藩校「崇広館」で、その時は町立病院として機能していた。彼が『これは神のものだ』と祈り出してから後、不思議なことに病院は新しい土地に新しい建物を建てて引っ越すことになったと、当時の学生たちが劇的に伝えている。

この建物は町役場の所有物であったが、月額五十円で借りることになる。その金額が現在のどれ程の額なのか、私には分からないが、まだ外国人やキリスト教への偏見も強かったころ、借用を快諾した町役場の懐の広さを感じる。彼がその邸宅を「日本自立聖書義塾」と掲げ、多くの青年伝道者と共に写真に収まる姿は、他者への誠実な慈愛に満ちている。
大正九年、ソーントンは兵庫県では篠山、谷川、日置、竹田、中村、小田、賀茂、西脇、生野、三田、福住、佐治、石生。京都府下では園部、福知山など、丹波一帯にくまなく伝道をしたとある。

祈りの閃き「ピーナッツバターの製造」

やがて労働の手段としてピーナッツバターの製造に着手する。その為に海外から大きな機械を取り寄せた。貨物船でどのくらいの時間や費用を要して、どの様な手段で柏原まで運んだのかといろいろ想像が出来る。その機械は現在も柏原の下小倉に残る

当時の日本では全く未知のピーナッツバターである。その栄養価や使い方を手紙に書いて、各地の教会や病院に送った結果、全国から多くの注文が入るようになる。
飽食の昨今、どちらかというとパンに塗る嗜好品として食されているピーナッツバター。その日本でのルーツは、嗜好品に留まらず、実は栄養改善の為のものだったのだ。

これは一人のアメリカ宣教師が長い祈りの中で閃いた一粒の種子である。愛娘を亡くしたソーントン夫妻には、日本の子どもの栄養改善は悲願だったのだ。心から感謝したい。

この姿に感銘した青年信者、石川郁二郎が『自分も意義のある仕事をしてみたい』と、その製造と名前を使用することを願い出た。彼は喜んでそれを承諾する。
戦争中、宣教師は皆、日本を離れた。

石川は昭和二十三年にピーナッツバターの会社を設立し、昭和二十五年にソントン工業と改称している。石川は千葉県佐原市(現香取市)に疎開したが、疎開先が落花生の産地であるとは、意図してか偶然なのか。不思議な力を感じる話である。どちらにせよ石川は戦後の食糧難の時こそ、役に立つべきと改良に励んだ。今は馴染みのある滑らかな「ピーナッツクリーム」へと変遷した。
ソーントンが柏原に居た期間は約六年間。人はどの部分を見ても、その人が現れるものだ。彼は生涯を通じて、己の品性を高め続けた人物であろう。その豊かな資質ゆえ、日本だけでなく沢山の国々に種子を蒔いた。彼の閃きの一粒が、ピーナッツバターなのだ。
この品格と閃きは何にも代えがたい資質であり、私が心から欲しているものである。

私は一つの宗教の枠に囚われない。人も一自然物であり、自他共に倖せになることが、全ての宗教の基礎であるはずと思いたい。
倖せとは、自分が第一主義ではいけない。感謝、謙虚、勤勉、そして和する心があれば、他を貶める貧相な行動や、汚い言葉は決して現れるはずがない。だが、今の世の中はどうなのだろう。無知な者は同質のリーダーを選択する。己と異にする事象を許容出来ないからだ。これほど恐ろしいことはない。

茹でたての落花生はホクホク♫

復刻、ソーントンピーナッツバター

夫は三年前初めて落花生を育ててみた。秋の夕暮れ、収穫した落花生を抱え、ニコニコと帰ってきた。その晩、塩茹でしたホカホカの落花生が食宅へ上がった。

「乾杯!美味い!丹波でも、結構できるもんだなぁ。これなら千葉県産にも負けないぞ」。夫は相好を緩ませてご満悦だ。勿論、私もそうである。

私はソーントンに触発されてピーナッツバターを作ってみた。当時のレシピは分からないが、材料は炒った落花生、バター、蜂蜜や砂糖だ。後に石川が子どもたち向けに、加糖入りを作ったと記録にあることから、ソーントンが作ったピーナツバターは甘味が少なく、実は大人の味だったことが分かる。
我家の「復刻、ソーントンピーナッツバター」は粒粒感が適度に残り、素朴な味わいに仕上がった。香ばしいトーストをほおばると、ソーントンの慈愛に満たされた気がする。

オーブンでローストして

 

フードプロセッサーで攪拌 砂糖・塩・オリーブオイル

 

無添加ピーナッツバターの完成!

さあ、私にはどんな種子が蒔けるのか。
私がそうありたいと願う姿や目標が、数多く存在する。叶うならば、いつか私もその一人になりたいものだ。自身が丹波の土に還るまで謙虚に学び、品位ある美しい言葉の種子を蒔きたいものだと、常に心している。
いつか花咲くことを祈りながら。

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